まえがき
本記事は私が読解力のなさがゆえに『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』について勘違いをしていたことを戒めとして書き起こした記事です。
ラブライブとの出会い
ラブライブを認知したのは2015年頃(中学二年生)でした。 正直に話すと、突然主人公がCGで踊り出し、なんだこりゃ、と思って一話で切りました(今でも尚セルルックCGとミュージカルが大の嫌い)。 デレマスが好きだったこともあり、やっぱ手描きだよな、思っていました。 また、ラブライバーの治安の悪さが轟いており、避けていたというのもありました。
随分と時は流れて、2023年頃(大学三年生)、偶然、ラブライブ2期4話のほんの一部の情報を目にする機会がありました。 その時、ひょっとしてラブライブにも「重厚」な要素があるのか、と偏見に亀裂が入りました。 ラブライブに詳しい後輩に訊くと、アイドルマスターとラブライブは違うということを話されました。
その後輩周辺では同時にアニメを観るということをしており、丁度良く『ラブライブ! スーパースター』を観ることになっていました。 好きな絵師が最近スーパースターにお熱ということもあって気になっていたため、観ることにしました。 そこで、身を持って、ラブライブはスポ根である、という想定外の認識を持つことになります。
それから『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『ラブライブ! サンシャイン』『ラブライブ!』と逆順で観ていきました。 特に、虹ヶ咲(以降アニガサキ)のアニメとしてのあまりのクオリティの高さに驚愕し、当時5年間も熱中していた東方Projectから鞍替えをすることになります。
おことわり
続編を受け入れるというのは難しいものです。 ごちうさ 2なるものが新しい主人公で出たら意味がわかりません。 とらドラ 2も千と千尋 2もSEKIRO 2も意味がわかりません。 何でもそうです。 その作品がどのパラメータに振れていようと、続編が出るときは受け入れ難いものです。 (あくまで続編であって、OOライズ第X弾やスピンオフを含まない)
私は前章の通り生粋のμ’sライバーではないため、Aqoursやそれ以降のIPが発表されたときのラブライバーの気持ちを語ることはできません。 Aqours以降嫌いという者・Aqoursだけ嫌いという者・虹ヶ咲だけ嫌いという者・すべて否定はしないが受け入れもしない者・すべてを受け入れる者、ネットも含めるとμ’sライバーの意見は様々でしょう。 私の中で『ラブライブ!』は「とてつもなく良くできた熱い物語」という評価がされているため、Aqoursがない頃に観ていれば、Aqoursを少なくとも嫌煙していたことでしょう。
続編を受け入れることができるのは、続編が出ることを当然のものと認識しているときだけです。 それは、知った頃には既にシリーズ化されていて・最初の作品に傾倒しておらず・2番目以降の作品を否定しない場合、あるいは最初の作品について思い入れがないか・良く知らない場合に成立します。
本記事からは「アニガサキはラブライブだ」という主張を見出せますが、それは「アニガサキは『ラブライブ!』だ」というわけではなく、「ラブライブシリーズを前提に置いた上で、虹ヶ咲はラブライブの精神を受け継いでいるのでラブライブシリーズの一つとして受け入れられて良いと思っている」という主張です。 だから、ラブライブをシリーズものとして多少なりとも受け入れられない人にとって本記事は不快になるだけなので、ブラウザバックを推奨します。 そもそも、本記事は懺悔なので、誰かを説得させる意図はないのですが。 アニガサキの話は非常にセンシティブなので、一応。
これまでのアニガサキへの評価
アニガサキはラブライブとして認めづらいものです。 廃校問題を抱えていなければ・何か壁にぶつかることもなければ・一致団結する様子もなければ・ラブライブにすら出ないのですから。 レビューのないスタァライトをスタァライトとして認めて良いのか?
とはいえ、前章の通り私は生粋のラブライバーではありません。 悪く言えば、ラブライブについて一歩引いた立場から楽しんでいます。 だから、虹ヶ咲はラブライブではないと承知しつつも、圧倒的なまでのクオリティを評価して、『ピンポン』と双璧を成す最高傑作であると位置付けていました。 魅力的なキャラ・完璧な構成の脚本・CP好きには嬉しい人間関係・超良質な楽曲・セルルックCGアニメが大の嫌いな私に有無を言わせないライブシーン……。 さらに、ラブライブらしからぬ要素も、薄いストーリーも、言い換えれば否定的な新規性であり、好きなキャラを純粋に崇拝するという「idol」への原点回帰の作品と評することもできます。 今でも尚、誇張抜きでずっと絶えることなくニヤニヤしながら視聴できます。
色々重なって、アニメ好きの私・同人好きの私・捻くれ者の私にぶっ刺さっていたのです。 そして、私は1年もの間ずっと、アニガサキの本質は「恵まれぬ者に恵みを与える物語」だと思っていました。 例えば、中須かすみから桜坂しずくへ、三船栞子からアイラへ、エマ・ヴェルデから赤嶺天へ、スクスタでアレだったR3BIRTH組も同好会あるいは制作陣から与えられています。 何より、高咲侑は同好会のメンバに様々な影響を受け、自分なりのやりたいことを見つけ、成長していきます。 アイドルもののくせにアイドルではないキャラが主人公であるのは、アイドルが我々に齎す恵みの強調になっているのです。 そう、アニガサキはアイドルものの癖に、アイドルではないキャラが主人公であり、アイドルを応援することでアイドルと共に成長していく様子を描いた物語なのです。
……違います。 この解釈には大きな誤りがあります。 それはアニガサキを人間関係から紐解こうとする誤り・そしてアイドルものであることを前提とする誤りです。
アニガサキの伝えたかったこと
高咲侑の行動原理は「夢を追いかける人を追いかけて自分の夢を見つけたい」です。 これは1期1話にて優木せつ菜に会いに行った理由として語られており、1期12話にて音楽の夢ができたことを上原歩夢に伝えるときにも語られています。 夢を追いかける人を追いかけるのだから、高咲侑はステージに立って踊ることはしないのです。 決して、夢中になれるものを欲していたわけではありません。 決して、可愛いアイドルに夢中になったわけでもありません。 「限られた時間の中で精一杯輝こうとする」スクールアイドルを追いかけることで、自分なりの夢を見つけたかったのです。
高咲侑の行動原理は1期終了時点で成就します。 そして、2期からは高咲侑自身が音楽という夢を追いかける人になるのです。 高咲侑が夢を追いかける人側に回ったということは、高咲侑を追いかけて夢を見つける人が現れるということになります。 これを高咲侑の成長という浅い表現で済ましてはなりません。 高咲侑はスクールアイドルに同化したということです。 スクールアイドルのファンの化身であった高咲侑は、誰かが夢を見つけるきっかけとなるスクールアイドルに同化したということです。
だから、2期最終話最後の「次はあなたの番」という言葉は、次はあなたが輝く番だよ、という意味でも、次はあなたが夢を叶える番だよ、という意味でもありません。 次はあなたが誰かの夢を追いかけることで自分なりの夢を見つけてその夢を追いかける番だよ、という意味です。 次はあなたが高咲侑になる番だよ、という意味です。
重要であるのは、スクールアイドルは誰かに夢を与える存在でも・誰かの夢を応援する存在でもないということです。 あくまでファンの方が主体となって、スクールアイドルの夢を応援することで自分の夢を見つけるのです。 この構造において、誰かが夢を追いかける原動力となるスクールアイドルの魅力を「トキメキ」と言うのです。
更に重要であるのは、そうして見つけた夢を追いかけることで、誰かが夢を追いかける原動力になれ、ということです。 これを「トキメキが広がる」と表現しているのです。
更に更に重要であるのは、夢が叶うか否かは問題ではないということです。 夢を追いかけることが大切だということです。
だから、スクールアイドルに「好き!」「可愛い!」「推す!」と熱中するだけなのは違うのです。 スクールアイドルに熱中するのではなく、自分のことに熱中するのです。 スクールアイドルが夢を追いかけるように、自分も夢を追いかけるのです。 アニガサキの提唱したスクールアイドルは「idol」ではありません。 アニガサキはアイドルものではありません。 アニガサキは、高咲侑の物語でも・同好会の物語でも・スクールアイドルの物語でもなく、我々に「あなたも夢を追いかけましょう」というメッセージを伝えるための長い長い回り道なのです。
そこまで感銘を受けることか
聴こえてきます。 あなたの「んいやそらそうやろ」という哀れみの声が。 「小学生から出直せ」という蔑みの声が。 こんなことわざわざ明文化するまでもなく100人が観て100人が理解するはずです。 そうでなくとも1期2期EDの歌詞やNEXT SKYのEDで察するはずです。
アニガサキに限らず「できるかどうかではなくやりたいことはやってみる」というメッセージ性はラブライブ全体に存在します。 ラブライブが存在しなかった頃にスクールアイドルで廃校を救おうとした高坂穂乃果も、μ’sに憧れてスクールアイドルになり多々の挫折を乗り越えて歴史に名を残した普通怪獣・高海千歌も、そのメッセージの象徴です。 だから、ラブライバーにとっては、何を今更、という話でしょう。
しかし、私にはできませんでした。 アニガサキのクオリティの高い装飾にばかり目が行って、それを剥ぎ取って本質を探ろうと思っていませんでした。 アニガサキが、これでもかというほどそのメッセージを伝えるために設定されているかに気付きませんでした。
一貫されているバラバラな同好会は、個性的なアイドルが多いでしょというアピールではなく、人の追いかける夢は人それぞれであることのメタファーなのです。 挫折と成功を描かない薄いストーリーは、人数が多い上にソロアイドルであるから尺がなかったためではなく、夢が叶うか叶わないかよりも夢を追いかけることを示唆するためなのです。 ラブライブに出ないのは、否定的な新規性なんかではなく、ラブライブに出なくともラブライブのメッセージを伝えることはできるという証左なのです。 アイドルではない高咲侑が主人公であるのは、アイドルのファンサービスを享受するためではなく、高坂穂乃果や高海千歌やスクールアイドルと視聴者である「俺」とを重ね合わせるための推進剤なのです。
アイドルものなのだからアイドルを好きになって推す、スポ根なのだから熱い展開に感動して推す、という硬い思考回路を持っていては、ラブライブのメッセージに気付けなかったのです。 その期間が1年も続いたのです。 1年も続いたからこそ、恥ずかしさのあまり尋常ならざる破壊力を伴って、私の胸に響いているのです。
だから、ラブライブのどのIPにハマっても良いことになります。 今からμ’s推しになってもAqours推しになっても良いのです。 けれど、一旦これまでのすべてを忘れて、すべてをフラットに見たとき、矢張りアニガサキあるいは虹ヶ咲のあらゆる要素が私の好みであるため、虹ヶ咲にハマる。 それだけの理由です。
おわりに
アニガサキ1期2期は私がラブライブにハマる前に終わっていますが、アニガサキ自体はまだ続いていきます。 川本美里がDDのライブを観て自身の夢を追いかけ始めたように、私も自身の夢を追いかけるのです。
同じサンライズ作品にこのことを大変綺麗に表現する言葉があるので、それを引用して本記事を締めます。
俺が、俺達が高咲侑だ!
余談
何がやばいって、公式のグッズ展開が完全に解釈違いになり、にじよんのような当たり障りのない二次創作でなければ解釈違いになったんですよね。夏目漱石の『こころ』を三角関係の恋愛ものとして解釈している人を見かけたら「んがががんが」となるのですが、それと同じことが大好きなCP同人にも起こるようになったわけで。来月に僕ラブにサークル参加する予定なんですけど、大丈夫そ?
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