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AI絵を不快に感じる理由

#essay
2023/6/13

おことわり。私は潜在拡散モデルはおろか、ニューラルネットワーク、人工知能について詳しくありません。あくまでそれらの概要や簡単な解説をさらった程度の人間からの批評であることをご了承ください。また、新規性のある主張をするつもりはなく、普遍的に正しいことを書いてまとめるだけのつもりです。従って、むしろ、読んで頂いたあと何も学びがないことを願っております。

AIに対して思うこと

私はいち理工学徒に過ぎないため、人工知能(Artificial Intelligence, AI)の正確な定義付けを知らないし・行えない。従って持論ではあるが、ここでは、「AI」とは人と同様の「知能」・より分かりやすく言えば「理性」を持つ人工物と定義する。

今日のニューラルネットワーク(NN)ベースのAIを「AI」と呼びたくない。ひいては、今日のAI絵を「AI」の絵と呼びたくない。というのも、学習機構・出力結果がただのコラージュ・近似に過ぎず、お世辞にも「理性」的であるとは言えないからである。

勿論、理性ある者は皆、外部の情報を参照して、自身の思考回路を調整しながら学習する。そして、必ずしも論理的演繹のもと言動を取るわけではない。NNベースにせよ、論理ベースにせよ、「理性」と同一スペクトル上には存在しているのだと思う。

しかし、NNベースのAIは、ある程度開発者の恣意を含められるとはいえ、「それっぽい何かを出力するもの」に過ぎない。従って、ことイラストレーションに関して、今日のAIは、ツールではあってもイラストレータではありえない。

この数ヶ月間の世間のAIブームに対する嫌悪感の正体とは、まさに原理を知らない人々が、知らないままに肯定的に過剰評価していることである。

創作に対して思うこと

「創作」とは、作者に内在する「意味」の表現である。例えば、架空の人物のドラマを描いたり、おしゃれな衣服をデザインしたりする行いである。

一方「発見」とは、既存物に「意味」を付与することである。例えば、大きな岩に名前を付けたり、ホームビデオをYouTubeに投稿したりする行いである。

これら二つは同一のスペクトル上に存在し、明確に区別することはできない。両端の差異は「意味」の第一者における在り処であり、言うまでもなく、創作は内在的であり、発見は外在的である。この中間に位置するものとしては例えば、事実ベースのフィクションや、機能性の高いUIデザイン等が挙げられる。

ここで言いたいのは、しかし、人間は曖昧ながらもこれらを区別しているということである。赤色を見て緑色と言われると、困惑してしまうのと同様である。つまり、既存物を創作物と主張したり、創作物に対して既存物だと決め付ける行いは、これと同じである。

創作は、「意味」が作者に内在し・物に対して先行する。この度合いがパラメータとなっている。従って、意味のない創作物は創作物としての価値はない。絶世の画家のラクガキの価値が創作物としての価値ではなく、例えば歴史的価値のような付与価値であるように。

勿論、創作は模倣の延長であり、真に新しく・唯一的である物は作りえない。何か創作物を見たとき、既存物が脳裏をよぎるのは当然のことである。そして、このことを人間は理解している。

AI絵に対して思うこと

既存物であるところの「AI絵」が創作の文脈で頒布されていることが、不快感の正体である。

今日のNNベースの「AI絵」は、大量のイラストの海からそれらしいものを取ってきて上手く混ぜ合わせたもののようと言える。AIは物体を理解しながら描画しているわけではない。このことは、膨大なパターンが考えられる「手」の出力に難があることからわかるだろう。

またAIユーザは、AIにキーワードを与え、出力結果を得る。キーワードは仕様ではなく、あくまで生成画像のジャンル指定である。従って、AIは必ずしもAIユーザの期待通りの結果を出力するとは限らず、そのときユーザは再度生成を命令することになる。

つまり「AI絵」は学習データという既存物のコラージュである。決して「意味」はAIおよびAIユーザの内部には存在しない。創作物とは認められないのである。

これを写真で喩えるなら、「秋の夕焼けを背に少女が自転車を押す絵が欲しい」と思いながら見知らぬ写真館に赴き、期待通りの写真を見つけるという行為と同様である。勿論、その写真との出会いも、その写真を紹介する行為も、価値のあるものと言いたい。しかし、その写真を我が物顔で創作物として頒布するなど、ちゃんちゃらおかしいのである。

また、NNベースのAIは、精度を高めるために大量の学習データを必要とする。この学習データが著作権侵害をしているとなると、誤解を超えて悪行である。このことを是認するようなユーザが一定数いること自体が、AI絵全体への不信感に繋がっているとも言えよう。

提案

とはいえ、少しの単語だけでクオリティの高いイラストが作れるという技術自体は、称賛すべき科学技術の進展である。これまで不満足した需要が解消される機会でもあり、決して非難すべきではない。

問題は人類側であり、AIユーザもそうでない者も、今日の画像生成AIを有益なツールとして認め、かつ出力結果が創作物でないことを認め、かつ法を遵守し、かつ道徳的・倫理的に行動すれば良いだけの話である。

AI絵を自分で描いたと言い張ったり、AI絵っぽい(と勝手に判断した)絵にAI絵だと指摘しに行ったりするのは、馬鹿げた行為である。AI絵は誰が描いたものでもないし、AI絵を探し出して排斥するほどAI絵を毛嫌いしなくてもいい。

しかし、この単純な解決策が実現しないのは、私を含めほぼ殆どの人々がAIについて無知であることと、現代の社会が悪行が得をする体制であることのためであろう。そして、どちらも解決は絶望的である。

それでもなお、改善は可能である。ここまで通読した物好きのあなたは、どうか、上の単純な理解を実践して欲しい。