天狗会議録 Posts Pages About

『幻想の行方』解説


当記事は、2022年10月23日の第九回秋季博麗神社例大祭にて頒布した東方Projectの二次創作の同人誌『幻想の行方』の解説です。

要約

当作品は、東方を用いた東方の風刺評論である。

新勢力は原作を軽んずる二次創作界隈、賢者は公式、霊夢は原作、魔理沙は原作好きを暗示する。端的に、東方の商業化に嫌気が指した原作好きが、離反して、回帰する話である。

二次創作について

二次創作とは二次的な創作物である。従って、コンテンツの一切を知らない者が、「ガワ」だけを描いたとしても、立派な二次創作と言える。

一方、ファンアートとは、コンテンツを愛好する者が、コンテンツのために創作した二次創作物である。従って、コンテンツを知らない者による二次創作物や、売名のための二次創作物等は、ファンアートと言えない。言い換えれば、いかなる自己主張は許されない。

また、商業とは利己を目標とするものであり、同人とは利己を目標としないものである。すべてファンアートは同人であり、すべてファンアートでない二次創作は商業である。目標は択一であるが、唯一であるとは限らない。

所謂「厄介」なファンは、ファンアートでない二次創作を嫌う。二次創作あっての東方と言っても過言ではない東方においては、しかし原作を知らない・あるいは原作に興味を持たない二次創作者(正確にはすべて東方に与する者)が、しばしば槍玉に上がる。

いくら東方公式が二次創作を推奨しようと、いくら二次創作物のクオリティが高かろうと、ファンアートを求める者は、二次創作者の商業性を許さない。

とはいえ、程度問題でもある。基本的に同人的であれば、ある程度の商業性を許容するのである。

企業によるテレビアニメ化が決まれば、強く非難されるであろう。少なくとも、企業制作のスマホゲームが発表されたときは、非難の声が多かった。

この違いは、同人性の有無である。

ところで、絶対的な善悪は定義不可能である。「厄介」なファンの非難は、これも絶対的に正当化されない。東方外で好きなイラストレーターが東方の絵を描いてくれると嬉しいとか、企業の作る高クオリティな東方のゲームを遊びたいとか、思う者がいるのは当然である。

重要なのは、銘々が各々の正義を持つことである。 私・天狗はファンアートを善ファンアートでない二次創作を悪と考えておりあるいはそう考える者を善そうでない者を悪と考えている

当作品について

当作品は、2022年10月23日の第九回秋季博麗神社例大祭にて500円で頒布された同人誌である。前章を踏まえると、商業性を嫌う私が、商業的な行為に及ぶのは、矛盾とも言える。実際、過去未来とも、同人誌等の頒布に躊躇する理由は、この矛盾を気にしてである。

また、当作品は次章から解説する通り、内容に「私・天狗の思想」が含まれる。これも矛盾と言える。実際、普段の作品に当作品のようなものが存在しない理由もまた、矛盾を気にしてである。

当作品の制作を決めた最大の理由は、この矛盾を認めてでも、私の考えを伝えなければならないと判断したためである。ここに、直接的な契機となった庵野秀明総監督/カラー『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』並びに、あすぜむ/イマソリドンダイ『【同人再録】石油王 優曇華院』に感謝申し上げる。

私の一次創作は極めて風刺的であり、この調子で話を考えると、東方の二次創作ガイドラインに抵触する。ここで、「東方について思うこと」を「暗示する」ような作品であれば、東方のファンアートの域に収まるのでないかと考えた。また、同人誌として有料で頒布することで、普段の作品と区別できると考えた。

従って私は、当作品を「東方を用いた」「東方に対する」「風刺評論」と表現する。際どいところで、人によってはファンアートと見做さないであろう。そうであれば、私は素直に非難を受ける他ない。

以上より、当作品のストーリーは、表面的には一般的なシリアスものに留まっている。「幻想郷を出た魔理沙がなんやかんやあって幻想郷に戻る逃避行もの」と要約される。とりわけ「よくわからない面白さ」というSF要素は含まない。

さて、以上を踏まえて、当作品の内容を解説する。

新勢力について

物語は、魔理沙が幻想郷から離反して一年程経過した時点から始まる。離反の理由は、作中で語られている通り、「新勢力が戦争を引き起こし、賢者がこれを容認したため」である。

新勢力は、これも作中に描かれている通り、シスター風の格好をした者を頭首とする組織である。一頁目の「なんて醜い郷でしょう! きっと、私のもとに一つにしますわ!」という台詞は、シスターのもの。モチーフは、外向的な力を持つキリスト教。

この新勢力が行ったことは、シスターの思想の布教命名決闘法の政治利用、あるいは弾幕ごっこの過激化である。端的に言えば、楽しんでやっていたゲームを、「ガチ化」したのである。

この新勢力は、原作を軽んずる二次創作界隈の象徴である。幻想郷にあったルールを無視し、あろうことか書き換えようとする。シスターの目には、自分の理想と・理想を実現するための土壌しか映っておらず、歴史に興味がないのである。

現実に照らせば、(別物であるという暗黙の了解ができつつあるが)東方キャラのゆっくり・立ち絵を用いた動画の投稿者や、東方ばかり描いてはいるが「ガワ」にしか興味がないことが明らかである絵師等が該当する。

そのような者達が、原理に忠実な者に比べ、自由であることは言うまでもない。無知である者に親しく、人気を博しやすい。無知である者は、原理の存在すら知らず、これを疑い得ない。

今でこそキリスト教は世界的に受け入れられているが、ユダヤ教にしてみれば、ユダヤ教の原理から乖離した異端が、よもや世界的に流行しているのだから、気分が悪いであろう。

同様に、原作を軽んずる二次創作ばかりが流行り、所謂「浅い」東方好きばかりが誕生する現状は、「東方好き」にとっては気分が悪いのである。

魔理沙についての詳細は次章に記すが、命名決闘法が悪用され、よもや霊夢に危険が及ぶ状況は、少なくとも命名決闘法制定の頃から幻想郷に携わっている魔理沙にとって、受け入れ難いものであった。

また、この新勢力は、東方の「変化」そのものの象徴でもある。そもそも東方原作が、初期三部作の頃から凄まじい世界観設定の変化を遂げている。

新勢力が登場するまでもなく、命名決闘法は政治利用されていたし、弾幕ごっこは過激化していた。このために、賢者は新勢力を容認したのである。

作品終了時点での幻想郷は、この新勢力の齎した「変化後」が存続している。 幻想郷の滅亡が賢者の忌避するものであれば、この判断は過ちでなかったと言える。 当然ながら、たとい東方がテレビアニメ化されようが、古参ファンが抜けて、新参ファンが入るだけであるから、滅亡は考えられない。

何事も、古きを捨て、新しきを取り入れることで進化するのである。進化を拒めば死を招く。しかし、長らく同人性が売りであった東方が商業化される現状は、見ていて不愉快であると、ここに表明したい。

魔理沙について

魔理沙は、「楽しいこと」あるいは「一線を越えるもの」に対して率先して首を突っ込む。この解釈は、たとえば儚月抄で命名決闘法を提案したり、闇市場で主人公になったり、グリウサですぐに人里の安全を確保しに行動したりすることに基づく。

基本的には、世渡りの上手いお祭り女である。楽観的であり、我儘であるように見えるが、社会的規範を熟知しており、人里や霊夢に危険が及ぶと判断されるものは、積極的にかつ静かに解決する。特に鈴奈庵全編でこの性格が見える。

また、十六夜咲夜同様に浮世離れした生活を送っており、この点で極めて妖怪に近いことは言うまでもない。妖怪であれば一旦懲らしめるスタンスの霊夢と違い、楽しければ「つるむ」相手が妖怪であろうと関係がない。特に三月精の一部から三部でこの性格が見える。

しかし、簡単に魔女になれるであろう魔理沙が、人間で有り続ける理由は、霊夢と同じ時を過ごしたいと思うためである。これは「霊夢がいないと退屈で死ぬ」という設定を拡張した解釈である。

魔理沙にとって霊夢は存在意義そのものである。友情や恋情ではなく、運命を共有したいという想いが働いているのである。霊夢が引退するならば自分も引退する。霊夢が死ぬならば自分も死ぬ。あるいは、霊夢の敵は自分の敵なのである。

作中に二度、魔理沙と霊夢との性描写が見られるが、霊夢に対する過度な愛情表現であって、元々霊夢を性的に意識していたわけではない。霊夢が放心状態になければ、(霊夢に迫られない限り)行為には及ばなかったはずである。

新勢力により、楽しいはずの弾幕ごっこが「ガチ」の決闘へ変化したこと、その怪我により霊夢の命に危険が及ぶことを、当然ながら受け入れられるはずがない。暫くは抵抗したが、賢者及び幻想郷の過半数が新勢力に便乗したため、霊夢を連れて幻想郷を出た。

さて、魔理沙は東方をこよなく愛す者あるいは原作好きの象徴である。

魔理沙は、「ガワだけの東方」になった霊夢に、きらびやかな幻想郷の思い出を投影し、しかし空虚さに葛藤する日々を送る。 このことは、劇的に変化する東方界隈に嫌気が差し、界隈外に離脱したものの、東方を捨てきれずに、かつて好きだった頃の東方を思い浮かべる、という東方ファンを暗示している。

蛙の妖怪を退治して以降、妖怪退治による「幻想郷らしさ」の補給を、見境なく行うようになるが、腐り切った自分にケジメをつけるべく、霊夢と臨終する選択を取る。 このことは、ふとした機会に東方原作にハマり直すと、変わり切った最近の東方原作に嫌気が差し、もう東方は終わったのだと痛感するようなことである。

最終的に魔理沙は、幻想郷に舞い戻り、「革命」を起こそうとするが、残念ながら我々一般の東方ファンには実現不可能なことである。 ZUN氏に直接「最近の東方は敵が硬すぎるし道中が雑過ぎるし精密操作ゲー過ぎるしあるいは超強力な救済システムを使って敵を蹂躙するバカゲーでまるで弾幕STGじゃないし」と言ったところで、アンチ発言として処理されるだけであろう。

勿論、昔ながらの弾幕STGの良さが消滅したという点を非難しているだけであって、新参者は最近の東方が好きで参入したわけであるから、老害ファンであることに他ならない。 しかし、この新参者は、歴史を軽視する新勢力と同値類である。是非、旧作は別としても、初期三部作等の古い東方、あるいは古い東方の置かれていた環境を知って欲しい。

霊夢について

作中にて霊夢は、最終盤を除き常に放心状態である。この様子は、最低限の社会的行動を取れる動物と表現するのが的確であろう。人語を操ることはできないが、服を着替えたり、布団を敷いたり、じっと留まることができたりする。「ただの人間」である。

幻想郷を離れる際、「博麗の巫女」という呪縛を解かれ、伽藍堂の「器」だけが残った様とも言える。描かれていないが、作中、この呪縛は次の博麗の巫女を捕らえている。魅魔が渡した「リセットディスク」は、旧作の「博麗の巫女」の呪縛であり、従って最終盤では、幻想郷に二人の「博麗の巫女」が存在することになる。

霊夢は原作あるいは東方の象徴であり、従って放心状態の霊夢は「ガワだけの東方の象徴である。また、霊夢の放心自体は、「幻想郷から乖離した東方は東方でない」ということを意味する。

幻想郷あっての東方である、というのは、やや過激な主張かもしれない。しかし、この主張を正当化したい。

キャラクターは様々な目的でデザインされる。たとえば、物語を駆動する舞台装置として。たとえば、客の目を惹く宣伝材料として。たとえば、ユーザの自由に使えるフレームワークとして。

東方Projectは、かねてよりキャラ設定やストーリー設定が曖昧にされている。しかし、殆どのキャラクターは各々のドラマに規定されている。つまり、そのドラマがあまり語られていないだけに過ぎず、根源的に素材としてデザインされたわけでは決してない。 (しばしば冴月麟と言われている、東方紅魔郷が頒布された時のサークルカットに描かれたキャラクターは、宣材目的でデザインされたと判断されても仕方ない)

東方のキャラクターを規定するドラマ・ひいては世界観とは幻想郷に他ならない。これは、すべて要素を抽象化すれば明らかである。(すべてZUN氏の制作物を東方と見做す者も見かけるが……)

当然ながら深秘録や当作品やのように、幻想郷の人間や妖怪が幻想郷外に出ても、全くおかしいことではない。あるいは早苗やマミゾウやのように、幻想郷外から幻想郷内に入る場合も同様である。それでも、幻想郷ありきであることに注意したい。

博麗霊夢は幻想郷の神社の巫女である。紅魔館は幻想郷の湖の湖畔に立つ洋館である。決して、博麗霊夢は日本の甲県の乙市の丙学校の生徒ではないし、紅魔館は日本の甲県の乙市に佇む洋館ではない。

本質に違うものは非同一的である。東方のキャラクターデザインにおいて、幻想郷は不可欠である。従って、すべて幻想郷の存在を無視する作品は、東方的でないのである。

この議論は、ファンアートでない二次創作を嫌う理由を提示する。いくら作品としてのクオリティが高かろうが、そこに描かれた「ガワ」は、自分が好きなものと同一と思えないのである。

勿論ZUN氏が、2100年のアメリカの少女達の「弾幕ごっこ」を主題とする、「東方」と名を冠した、かつ「幻想郷とはパラレルである」と公言された作品を発表すれば、「東方」の本質から幻想郷は消えるであろう。 現時点において幻想郷は東方の本質の一つである、という話である。

魅魔について

魅魔の扱いは、センシティブな議論であるが、当作品では「魅魔は命名決闘法が制定される以前の魔理沙の師匠」という安直な解釈を採用している。

無戸籍状態の魔理沙が、バイトや居住をできている理由は、魅魔が取り計らったためである。この描写は、プロット段階から省略された。紫や隠岐奈等の賢者に頼まれたかは不明である。

物語的には、ターニングポイントを置く舞台装置である。意固地になっていた魔理沙を改心させる強力な手段として、次のことをした。

魔理沙にとって臨終という選択は、決して取りたくなかった最後の選択である。本心では、幻想郷に帰りたいのである。それを固定観念やプライドが拒絶しているのである。これを取り払うための出来事としては、十分であったろう。

さて、魅魔はとりわけ何かの象徴ではない。現実的には、「昔の東方しか愛さなくても良いから俺と話そうぜ」というような東方ファンが該当する。私はそのような人に出会ったことはないし、皆が出会えるわけではない。

魅魔の立場は、子供・大人のどちらでもなく、「高徳」である。ここでいう「徳」とは、徳倫理における「徳」である。端的に言えば、その場の状況に合わせて適切な言動を取る者を「高徳」という。 徳倫理の欠陥でもあるが、「徳」の定義に用いられる「正しさ」の基準は定められていない。 このため、魅魔の主張もまた、正当化しえない。

しかし、魔理沙は魅魔の助言に従うことにした。自分の弱さを痛烈に認め・赦し、これまで諦めてきた「希望」に「賭ける」勇気を出したのである。

臆病であるのは良い。護身には不可欠な心掛けである。しかし、臆病なだけでは何も解決しない。人を信じる勇気・敵と戦う勇気もまた、必要不可欠なのである。

総括

ファンアートでない二次創作は、その自由度のために人気を博しやすく、原理を知らないファンを増長する。従って悪である。

当作品は、東方界隈における上記の現象に対する風刺評論である。物語のあらすじは次のようである。

  1. 新勢力が既存のルールを利己的に悪用し、賢者が容認し、霊夢に危険が及ぶようになる。
  2. 魔理沙は諦めて霊夢を連れて幻想郷を出る。
  3. 精神的に追い詰められ、臨終を決断するが、失敗する。
  4. 魅魔に諭され、幻想郷に戻り「革命」を起こすことに決める。

上記のあらすじは、次を意味する。

  1. 二次創作者が商業的な二次創作活動をし、公式が容認し、原作が軽視されるようになる。
  2. 諦めて界隈から離れる。
  3. コンテンツ愛を捨てきれず、しかし界隈を覗く度に不快な思いをする。
  4. もう一度信じてみようと界隈に戻る。




作中の表現について

以上、当作品の伝えたいことの解説の殆どが終わった。しかし、せっかくの解説であるので、作中の「伏線」について解説をしたい。

外の世界

序盤で「一年前霊夢を連れて幻想郷を出た」とある。また、終盤の霖之助の台詞に「二年ばかりか」とある。これは、幻想郷を出る前の顔を合わせていない期間と併せて「二年ぶり」ということである。その会話中の「二年近く」は、魔理沙が霖之助の感覚に合わせたためである。

幻想郷の外は極めて冷淡で平和な世界である。我々の住む日本もまた、二十年間生きて一度として事故・事件に遭わなかったという者は珍しくない。 当物語もまた、一切事件・事故が起きない。ただ魔理沙が心的に追い込まれていくだけである。

ただし、警戒心は強く、外出時には八卦炉を持ち歩いている。これは序盤の一コマや、蛙の妖怪退治の描写に反映されている。 中盤に、パトカーを見て息を吐くシーンがある。これは警察の用が自身に対するものではなかったことへ安堵したシーンである。プロット段階では、警察から逃げる話になる可能性もあった。

近隣住民は魔理沙の生活レベルを周知しており、魔理沙の厭世的な態度も手伝って、悪く噂されている。この噂が魔理沙の厭世観に拍車を掛ける。「社会は無自覚のカルトだ」という台詞は、この心理から来るものである。

幻視と妖怪

幻想郷での風景を幻視する様子が作中に三回登場する。都度、白縞が薄くなっており、現実との区別ができなくなっていることを暗示している。敷衍すれば、現実逃避が強くなっている。

作中の魔理沙は、あらゆることへの「情熱」を失っている。このことは、海という滅多に見ない風景を見て感動を覚えなかったことで自覚する。実際、魔理沙の笑顔は作中で一度も描かれていない。

旅館には小学生が林間学校に来ており、肝試しをしている。この肝試しは安全なルートを選択しており、大人も見ているため、怪異に襲われる心配はない。魔理沙が追い返した二人組は、肝試しとは全く関係のない大人二人である。

蛙の妖怪に特に意味はない。ただ、作中には蛙の妖怪、山道の妖怪、男の妖怪、女の妖怪、魅魔が登場し、追って人間に近づいていく。また、妖怪の登場時に背景のディティールが消える。これは異界的な表現として意図したものである。

霊夢の体調不良

旅行から帰って霊夢の体調が悪化する。プロット段階では「幻想痛」だとか「幻想病」といった単語や、病院で「原因不明」とだけ言われて追い返される描写があったが、反映はされなかった。

通常の健康被害ではなく、幻想郷から離れた霊夢特有の病気である。作中序盤から描写のある咳は、魔理沙の言うとおり、この病気のためである。

アリス

当作品はレイマリ枠として応募した。しかしその実はマリアリである。マリアリ世界線におけるレイマリ本とも言える。

魔理沙にとってアリスは意中の人である。最も着飾りたい相手であり、最も弱みを見せている相手である。臨終を試みた直後という窮地で想起される描写は、アリスが特別であることの尤もらしい表現である。

一頁目の「辛いのはあなただけじゃないのよ」と「また逃げるのね。家の次は郷ということ。逃げてばかりじゃ何も得られないわよ」はアリスの台詞であり、「失望した。おまえらはあいつの味方だと思っていたのに……」は魔理沙からアリス(を含む数人)に対する台詞である。

幻想郷への帰還

文に対する「まさかおまえが送迎役とは」とい台詞は、幻想郷を出る手伝いをしたのも文だからである。一頁目の「お手伝いできるのはここまで。ではお達者で」は文のものである。

新調した霊夢の巫女服は、紅霧異変時の巫女服に寄せている。これは、原点回帰の表現である。 「弾幕ごっこの始まり」から幻想郷をやり直そうというのである。

小ネタ

『幻想の行方』というタイトルは一見して直球であるが、『幻想郷の行き方』が隠しタイトルになっている。奥付頁のタイトルロゴに不自然な半角スペースがあるのは、このためである。

また奥付頁にのみ付されているサブタイトル「Return from Ends of The Phantasm, and to ...」のコンマ以降は「and Return to Ends of The Phantasm」であり、意味は「幻想の最果てからの帰還。そして幻想の最果てへの帰還」である。 つまり、「逃避行という幻想の最果てからの帰還。そして、戦場のような幻想郷への帰還」である。この後、革命を起こすために奮闘することを考えれば、夢も希望もないことは言うまでもない。

戻る